修道院でのビール作り1
12世紀になると、修道士が修道院でビールを作る理由は、彼ら自身のためだけではなくなっていました。当時おびただしい数の巡礼者や放浪者が修道院を訪れ、食事やビールの施しを求めて来たため、それに応じる必要がありました。
1日200人にのぼることも稀ではなく、修道院によっては年間1万人位を迎え入れたとの記録が残っているくらいです。
理想的な修道院は、敬虔な修道僧が日々祈りを捧げ、厳しい戒律を守りながら身を粉にして労働し、自給自足を行いながら余った食料や物品を交換したり、貧しいものへ施しをするというものです。しかし、実際のところ自給自足は容易ではなく、現実は非常に世俗的でした。
村では毎日エールビールやパンなどの食料について、決まった量を土地の修道院に拠出していましたし、当時の修道院長は強大な世俗的地位にあり、時としては地域の村全体が事実上、修道院の支配下におかれることもありました。
修道院でのビール作り2
修道僧の集まりは頭脳集団であり、ビール醸造技術者の養成機関でもありました。古文書から得られるビール作りの技術を体系化、師から弟子へと秘訣を伝授し、試行錯誤を重ねながら質を高めて行きました。
その結果、一般とは格の違うビールが出来上がり、修道院ビールは世間でも評判になったのです。そのビールは、市場で高価に取引され、修道院の貴重な財産となりました。後にこれらの醸造技術は、修道層から手工業者へ伝えられていきます。
ビールのことを「液体のパン」ともいいますが、これは修道院で厳しい断食をしていた時、たまたま見つけた教会の古文書に、「液体を摂取することは断食に違反しない」との文献を発見したことが始まりです。
「液体」をビールと解釈し、断食の時期に栄養価とアルコール度数の高いビールを「生命の水」「活力の源」として栄養補給に使いました。
16世紀に宗教改革を行った「ルター」もビールが好きで、この「強いビール」を飲みながら改革を断行したと言われています。